堀治喜の「酔頓楼からの遠吠え3」

広島のサカスタ問題に見る〝行政エゴ〟

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昨日、広島国際会議場で「第1回 まちSTA! シンポジュウム」が開催された。

会場は500人定員だったらしいが、ほぼ満員。しかもサンフレユニはほとんどいなくて、一般市民の関心の高さをうかがわせた。

都合があって途中からの参加だったが、なごやかな会場には時折りほど良い笑いがあって、「陸上競技場」というフレーズが出るたびにそれは湧いていた。

今ワールドカップの中継で、ロシア各地の素晴らしいスタジアムが映し出されている。
サッカーがサッカーにふさわしい場で行なわれている。それを目にすれば「陸上競技場でサッカーをしている」なんていうのは、ナンセンスな笑いのタネにしかなからないのだ。

それはともかく、シンポジュウム。
もちろん、これからの広島のサッカースタジアム問題を語ろうというのがコンセプトなのだが、何とも言えない違和感を覚えたのも事実だった。

それはピントのぼけた既視感とでもいうのか、〝逆既視感〟とでもいうのか、そんな感覚としか言いようのないものだった。

この日、この会場で開催されるイベントは本来、これからのことを語る場ではなく、決まったことの報告会、あるいは感謝のセレモニーであっても不思議ではなかったからだ。

広島でサッカースタジアム問題が俎上に上がってから、もう何年になるのだろうか。
その間、スタンスを様々に変えにがら議論がなされてきた。にもかかわらず一向に進まない。今流行りの言葉でいえば「1ミリも進んでいない」のだ。
「候補地をどこにするか?」
そんなことすら未だに決まっていないのだから。

すぐ横には旧広島市民球場跡地という最適な候補地がありながら、地元の強行な反対があらかじめ予想されていた中央公園を、「今から説得します」というありさま。
1ミリどころか、後退してしまっている印象だ。

しかもここは、議論に議論を重ねてきた過程ですでに、前記の理由で候補地からは外された場所だ。
それを受けて松井市長だったかが「候補地は宇品みなと公園と旧広島市民球場跡地の二か所」と明言もしていた。
一度は自ら外した候補地を広島市は、またぞろ復活させて、できもしない「説得」を試みている。(もちろんこれは「説得に当たりました」のポーズで、広島市はその結果には期待していないはずだ。最後に強制執行する時のそのアリバイ作り。それは広島市民球場が解体された経緯を見れば明らかだ)

それは彼らが暗愚であるからではない。それも多少はあるかもしれないが、何としても旧広島市民球場跡地にサッカースタジアムは作れない事情(もちろん市民には言えない理由)があるからだ。

それは昨日きょう、湧いて出てきた事情ではない。
カープが去った後の広島市民球場をどうするかという議論がはじまったときから、この何としても旧広島市民球場跡地にサッカースタジアムは作れない事情は発動していた。(ここは留意しておくべきだろう)
それは拙著「誰が、市民球場を壊したのか?」をお読みになれば理解していただけると思う。

否、賢明な方であれば冷静にコトの経緯を今一度振り返ってみてもらうだけで、「あるある」と納得いただけるはずだ。

その事情を広島市は隠したまま(もちろん言えるわけもないのだが)、候補地から跡地を外そう外そうと姑息な手段を講じているから、この問題はいつまでも迷走している。

そんな事情も知らない市民県民、また部外者が、中央公園の周辺にお住まいの基町住民の方々が反対していることについて「住民エゴだ」と非難しているようだが、それはオカド違いというもの。

それをいうなら、このサカスタ問題は広島市の行政エゴが端的にあらわれた例と捉えるべきだろう。

「住民エゴだ」
そんな声をあげ、意見をしたり顔で語っている向きには、もしかして広島市からリークされる情報及び地元メディアの洗脳、世論誘導にまんまと乗せられているんじゃないか、今一度ことの経緯を冷静に振り返っていただきたいものだ。



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# by suitonrou3 | 2018-07-02 08:59 | スタジアム&跡地問題 | Comments(0)

「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」を改稿してアップしました。

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この28日の「衣笠祥雄氏 お別れの会」に参列して、気持ちの整理もつきました。

それでやる気になったこともあって、「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」を一気に改稿して仕上げました。

ご霊前に供えるといってもネット上ですが、
タイトルも「衣笠祥雄はなぜ監督になれなかったのか?」に変えて、あらたに公開しました。

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ちなみに、こちらが「お別れの会」の模様です。

いかにも衣笠さんらしい、温かい雰囲気に包まれた会場。

「幸せな悲しみ」
そんな言葉が浮かんできました。



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# by suitonrou3 | 2018-07-01 10:11 | 楼人日記 | Comments(0)

顔の見えない「お別れの会」

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衣笠祥雄さんが亡くなってからの四十九日間、追善のつもりで衣笠さんの追悼コラムを書きつづけてきた。

その最終日、49回目となった11日の夕刻、FM放送のニュースで、カープ球団が「衣笠さんのお別れの会」を開催することになったと伝えた。

「もしかして喪明けを待っての発表か?」とも思ったが、衣笠さんへの敬意に欠けているらしいあの球団がそんな配慮をするはずもなく、事態をはかりかねていたのだが、翌日の新聞発表を読んでようやく事態が腑に落ちた。

その記事によれば、発起人は松田元オーナー、TBSテレビの武田信二社長の二人となっている。
つまり、お別れ会の開催はカープ球団から持ち上がったものではないということだ。

カープ球団が主催するのであればオーナーが発起人となり、複数が並ぶことはない。その名前だけで十分だからだ。

ちなみに星野仙一氏が亡くなった際、阪神球団はすぐに公式サイトに訃報を掲載し、その12日後には「お別れの会」の開催をオーナーを発起人として発表していた。

衣笠さんが亡くなってから、いつまで経ってもカープ球団からは「お別れの会」を開くという情報は聞こえてこなかった。
つまり球団サイドにはその気持ちが、元々なかったということだろう。

しかし、さすがに衣笠さんほどの選手の「お別れ会」をしないわけにはいかない。それは球界の常識だ。

業をにやして衣笠さんと専属契約をしていたTBSが腰を上げた。というより、たぶん震源地はRCCだろう。衣笠さんと親交のあったアナウンサーとか、スタッフたちが止むに止まれずに腰を上げた、ということのようだ。

しかし、地元の放送局が勝手に動いたとなると球団からのプレッシャーにさらされる。
「余計なことしてくれたよの。また出入り禁止でぇ」と。
そこで親会社であるTBSに冠をお願いした、まあそんな図式だろう。

しかし、ここから衣笠さんが敬遠した「ややこしい人間関係」が現出する。

RCCだろうがTBSだろうが、思いがあるんだからやっちまえばいいのだが、「カープ球団を差し置いて勝手に動くのはどうなのか」という麗しいオトナのロジックが発動するのだ。
とくに広島は、その傾向が強い土地柄だ。

そこで会を企画した関係者がカープ球団を説得することになる。(ここからは憶測)

「球団が衣笠さんほどの選手のお別れの会をしない、というのは世間体としてどうなんでしょうか。ここはオーナーに発起人に名前を連ねていただいてですね…。
いえいえ、オーナーが衣笠さんを毛嫌いしておられるのは存じておりますし、名前をお貸しいただくだけで結構です。すべてはこちらでご用意させていただきますから。
そうそうズムスタを使うのはお嫌でしょうから、ホテルの方、手配いたしましたし…」

そう説得されて、球団はしぶしぶ了承。
しかし世間に公表するにあたっては「カープ球団がお別れの会を催すことになりました」となる、まさに麗しい「オトナの世界」だ。
球団はただ乗りしただけ、というのが真相なのだろうが…。

とはいえ、せっかくどなたかのご好意で催してもらえるお別れの会だ。
衣笠さんの御霊に花の一本もお供えできればとは思っている。

「マツダ商店(広島東洋カープ)」はなぜ赤字にならないのか?

堀治喜 /文工舎

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# by suitonrou3 | 2018-06-14 19:08 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

カザリンの手ぬぐい

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きのう、取り置きしてもらっていたある書籍を引き取りアカデミイ書店紙屋町店に寄ったときのことだ。

「カザリンって、どんな会社なんですかね?」

カープの初代エース・長谷川良平さんのイラストを染め抜いた記念手ぬぐいを手にして、スタッフのHさんが訊いてきた。

昭和30年に長谷川さんがシーズン30勝をあげて最多勝利投手になったときの記念品。掘り出し物がある、と言ってカウンターの下から取り出して見せてくれた日本手ぬぐいの裏に、その名があったのだ。

最近は古書店というよりカープのグッズショップと化しているアカデミイ書店。様々なグッズが持ち込まれるが、確かにこれは「掘り出し物」だろう。

「ぼくの本(全身野球魂 長谷川良平)、読んでないね!」
そう茶化して差し上げたが、カザリンというのは、長谷川さんが現役当時に入り浸っていた喫茶店の店名。この店のまわりに長谷川さんのファンの輪ができていた。

店のママはタニマチのような存在で、物心両面で長谷川さんを応援されていたそうだから、長谷川さんの快挙を祝って個人的に作られた記念。それをみんなに配って、共に喜び合ったということのようだ。

長谷川さんを中心にこの店の常連で「カザリン」という草野球チームを作っていて、今では考えられないことだが、シーズンオフには長谷川さんも混じって試合をしていたのだ。

今でいえば黒田博樹と同じチーム、同じユニフォームで、ファンがゲームを楽しんでいたのだ。
そんな当時のカープ選手とファンとの距離感を伝えるグッズとしても、この手ぬぐいは貴重なものだろう。

この年からちょうど10年後に衣笠祥雄氏はカープに入団しているが、そのとき長谷川さんは現役を引退して投手コーチとなられていた。そしてシーズン途中から白石勝巳に代わって監督をつとめている。

もちろんカープ選手とファンとの距離感も変わっていたはずで、その頃はかなり遠いものになってただろう。

埋蔵経と書けば大げさだが、60年余りのときを経て世に出てきたこの手ぬぐいが、当時の長谷川さん、そしてカープの消息を伝えることになった。
これから50年後、100年後、はたして衣笠さんはどんなものによって、どんな形で蘇ることになるのだうか…。

その手ぬぐいを見つめにがら、そんなことを思っていた。

全身野球魂 長谷川良平

堀 治喜/文工舎

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# by suitonrou3 | 2018-06-06 09:56 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

夢に見た“衣笠政権”のメンバー

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今年は2018年。
元カープのストッパー・津田恒美の没後25年にあたる。

衣笠祥雄氏ではないが、僕はこの年を生涯忘れることはないだろう。
津田恒美の死がショッキングだったからというのはもちろんだが、彼の死と僕の個人的なメモリアルが重なったことが大きい。

この年、僕は広島の県北に土地をお借りしてドリームフィールドという野球場をつくりはじめた。
その土地の賃貸契約をしたのが7月20日で、つまり津田の命日だった。
津田の野球人生が幕を閉じたとき、僕は野球場の夢を追うことになった。

このめぐり合わせを意識したのは後年になってからだったが、その符号に感じるところがあって脳裏にこの年、この日が深く刻まれているのだ。

あまりにも早すぎた津田の死にショックを受けた僕は、「なぜ?」の疑問に突き動かされるようにプロ野球のトレーナーの取材をはじめた。
選手たちの病気やケガの周辺を探ることで、津田の死の原因とか意味とか、何かがつかめるのではないかと思いたったからだった。

そして、その取材をまとめて「ダメージ」という本を書きはじめた頃に、カープのトレーナー福永富雄氏のお宅で衣笠さんと初めてお会いしている。
これもいま思えば不思議なめぐり合わせだった。
津田の死と衣笠さんとが、このとき僕の中でつながったという意味で。

津田の没後20周年に、今度は津田が生まれ変わってカープを優勝に導くという物語「天国から来たストッパー!」を上梓した。
「もう一度マウンドに上がりたかった」
津田のその思いを現実のものにするための、僕なりの祭祀だった。

津田がふたたびカープにもどる…。
そのとき監督は衣笠祥雄でなければならなかった。
衣笠三でなければ、その祭祀の“司祭”にはなりえなかったからだ。

この本はまた「カープの監督になれなかった衣笠さん」の思いを実現させる、僕なりの祭祀でもあったし、個人的な夢の実現でもあった。

衣笠さんなら、きっとこんなチームを作るだろう。
ペナントレースを戦う衣笠さんは、きっとこんな心構えだったはずだ。
こんな局面で衣笠さんは、どんな采配をしただろうか…

それを想像し物語りを構築していくことは、ひとりのファンとして、また物書きとして至上の歓びでもあった。
とりわけ衣笠監督を支えるスタッフのキャスティングに思いをはせるのは、至福の時間だった。

といっても、中核に座る人選は前から頭にあった。
たぶん多くのカープファンが共感してくれると思うが、それは江夏豊氏だった。
衣笠さんとの個人的な交友関係ももちろんだが、衣笠監督誕生でしか江夏豊という稀代の野球頭脳が現場に帰ってくる機会はないと考えたからだ。

そして、衣笠・江夏という巨頭を支え、選手との橋渡しとなる「兄貴分」として高橋慶彦氏を起用した。
この3人による指導部。架空のカープ首脳陣とはいえ、これが実現しただけでも僕は満足だった。

ここで拙著「天国から来たストッパー!」に登場する主なカープ首脳陣を列挙してみたい。(カッコ内は本の中の名前)
つまり、このメンバーが僕が考えた「夢の衣笠政権」だった。

監   督     衣笠祥雄(衣澤幸雄)
ヘッド兼投手コーチ 江夏豊(夏木穣)
総合コーチ     高橋慶彦(高崎義彦)
投手コーチ     大野豊(小野田穣)
バッテリーコーチ  達川光男(田地川満男)
兼任打撃コーチ   金本知典(梶本知則)
二軍監督      安仁屋宗八(比嘉城双八)

天国から来たストッパー!

堀 治喜 /文工舎

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# by suitonrou3 | 2018-06-03 18:53 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

好感度MVP

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映画「フィールド・オブ・ドリームス」に感化されて手づくりした、わがドリームフィールドには、映画のストーリーのように少なからぬプロ野球のOBたちがやってきた。

最初のゲストは元カープ投手の池谷公二郎、小林誠二の両氏。まだ完成前の整地もすんでいない頃、テレビで僕たちの夢をアピールしてくた。

完成して最初に来てくれたのは、やはり元カープの高橋慶彦氏。インターネットで「この夢の球場には誰に来て欲しいか?」のアンケートを取ったところ、一番票を集めたのが高橋氏だった。

こちらが勝手に「来て欲しい人」を選んだものの、来るか来ないかは本人の気持ち次第。果たしてどうかと、ダメ元で依頼してみたら、快く来場してくれた。

カープOBチームもご招待した。当時はまだ長谷川良平氏がご存命で監督をされていた。シューレス・ジョーの橋を渡って、外野フェンスのとうもろこし畑からご登場願ったのだが、長谷川さん、照れながらも喜んでましたね。

「あんた、面白いことするよのぉ」長谷川さんのあのひとことは、今でも僕がバカする時の励みになってます(笑)。

安仁屋宗八さん、達川光男さんも来てくれました。

カープ以外にも、あぶさんのモデルとなった永渕洋三さん、元中日ドラゴンズの田尾安志氏、パチン佐藤さんなんかも来てくれました。

そして、草野球甲子園大会の名誉会長だった衣笠祥雄氏。大会で3回、子供たちの野球教室にも来てくれましたから、計4回。それも毎年のことでしたから、たぶん連続来場記録です(笑)。

ドリームフィールドという野球場で、一緒に野球を遊ぶ。いわば定点観測のように彼らと触れ合うと、人間性とかキャラクターがよく見えます。

やはり「一番面白いひと」は達川さんでしたし、「気配りしてくれるひと」は安仁屋さんでしょう。

元プロ野球選手ですから当然なのですが、なかにはちょっとスカして、ぶってる方もいました。これは誰とは言いませんが、カープのOBではありません。

逆に「もっとも元プロ野球選手らしくなかった」のが衣笠さんでした。

グラウンドでシェパードと戯れていたおばさんのところに歩み寄って、「僕も大型犬を飼ってるんですよ」と、気さくに声をかけられたそうで、当のおばさんはまだあの時の感激を忘れられず、ことあるごとに持ち出してきます。

まあ、衣笠さんの人間性をここであらためて述べる必要もないでしょう。

ついでにいえば、「もっともナイス」だったのは、高橋慶彦氏です。わざわざのご来場に感謝して、こちらは奮発してバーベキューの用意をしていたのに、「ぼくは持参しましたから」と、愛妻弁当でしょうか、手作りのサンドイッチをみんなと車座になって食べてましたね。

詳しい場所を訊くこともなく、自らハンドルを握ってやって来て、ゲームが始まればどちらがホストかわからないほどのサービスぶり。何かを要求するとかもいっさいなく、本当に気さくな人物です。

ということで、衣笠さんとヨシヒコ。このおふたりがドリームフィールド来場プロ野球OB選手の好感度MVPです。

偶然でしょうか、このおふたりにはある共通点がありますね(笑)。「カープ検定」ではありませんが、答えはそれぞれがお考えください。

「草野球の日」宣言。

コーンプロジェクト /文工舎





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# by suitonrou3 | 2018-05-24 09:23 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

生涯忘れることのない日

「昭和50年10月15日。この日を広島の人々は生涯忘れることはないだろう」カープが初優勝した際に衣笠祥雄氏は、こう語っていた。

もちろん優勝を手にした瞬間の、興奮がピークの時にほとばしり出たものではない。やや時間が経って気持ちの整理がついてからのコメントだ。

「優勝がこんなにいいものだとは思わなかった。今までそれを知らなかったのは不幸だったよ」

祝賀会のビールかけでの発言だったろうか、直後には確かこんなことを語っていた。

「永遠に忘れられない日」それは意外にも、その時リアルな感覚として理解できるのではなく、時を経て振り返ってみて身にしみるものなのだろう。衣笠さんにそう言われた広島の人々だって、優勝を目にした瞬間はただ興奮するばかりで、そんなことを意識する余裕もなかったはずだ。

では、そんな言葉を残した衣笠さんにとって「永遠に忘れなれない日」とは、どんな日だったのだろうか?

プロ野球選手であった衣笠さんには、その候補はいくらでもあったはずだ。

初めて一軍の試合に出た日。

初ヒット、初ホームランを放った日。

連続試合出場の日本記録を更新した日。あるいは世界記録を塗り替えた日。

巨人の西本聖投手からデッドボールを食らって肩甲骨にヒビが入ったにもかかわらず、目覚めたら奇跡的に肩が動いて打席に入れた日も忘れがたい日だったにちがいない。

衣笠さんの著書「限りなき挑戦」には、こう記されてあった。

「昭和45年10月19日—。僕は生涯、この日を忘れぬだろう。時間が経つにつれ、歳月が流れるにつれて、ぼくはますますこの日を意識するだろう。」と。

この著書は、すでに連続試合出場の日本記録を更新したのちに書かれている。その偉業達成の騒動も落ち着いての述懐、感慨といったものだ。ある特別な日を振り返った時、なんでもなかったある日が、強く意識に上るようになっていたのだ。

そのなんでもなかった日のことを、衣笠さんは鮮明に覚えてた。スタメンから外れて、6回に興津立雄一塁手に変わって守備についたことを。まさかここから偉大な記録がスタートすることになるとは知るよしもなく…。

時を経てある日のことが、かえって強く意識に上るようになってくる。それは後日になって、その日の意味があらためてわかるからだ。

とすれば衣笠さんの連続試合出場記録をはじめ、彼が残した偉業や言動も、後年になって我々の意識に違った意味を持って立ち上がってくるのだろう。

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 /プレジデント社

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# by suitonrou3 | 2018-05-23 12:59 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

“母さん”が生んだ“孝行息子”

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「母さん、間違えんさんなよ。ますやみそよ!」こう書いているだけで懐かしさがこみ上げて、涙が出そうだ。

たぶんこのキャッチコピーで間違えはなかっと思う。広島のローカルみそメーカー・ますやみそのテレビコマーシャルで、衣笠祥雄氏はイメージキャラクターとして長く親しまれた。

はじめて目にしたのはいつだったか、カープが初優勝してようやくプロ野球チームとして認められて以後、たぶん1980年前後の頃だったと思う。

そのときすでに一流選手の仲間入りをしていた衣笠さんと、地場の小さなみそメーカーの取り合わせはいかにもミスマッチ。いわゆる「格」がちがうと感じたし、「なぜ衣笠なんだ?」と小首を傾げもした。そもそもプロ野球選手をイメージキャラクターにするというコンセプトに、こちらは耐性ができていなかったのだ。

当時はまだプロ野球のスター選手といえどもメーカーと専属契約を結んでテレビコマーシャルに出るような時代ではなかった。

例えばかつて球界の盟主だった巨人の王貞治が「僕も好きです、亀屋万年堂」だったか、お菓子メーカーのTV-CMにご登場されていた程度。それも同社が国松彰コーチの親類筋で、彼に頼まれて仕方なしに出たのだという、その噂の方が話題になったようなコマーシャル事情だった。

選手もやみくもにコマーシャルに出ることはなかったし、クライアントもまだプロ野球選手を起用することには及び腰だったのだ。

そんな時代に広島というローカルの、しかも呉市に本社を構える小さなみそメーカーがカープのスター選手と専属契約を結んでキャラクターに起用したのだから、そのインパクトは凄まじかった。たぶんある世代から上の広島県人で、あのコマーシャルを知らないものはいないはずだ。

はじめ、ますやみその経営者は野球にそれほど関心があったわけではなかったらしい。カープの二軍選手の食事風景を紹介したり、外国人選手の家族を登場させたりと、遠慮がちにカープ色を出していた。

それがある奇縁から、といってそれが運命というものなのだろうが、球団の方から「3番を起用してみたらどうか」と提案があったらしい。ますやみその方からのご指名、依頼ではなかったという。

当時はまだ松田耕平氏が名実ともにオーナーで、わが子よりも可愛がり期待もしていたという衣笠さんを“球団の顔”として推薦したということなのだろうか。

言葉は悪いが、考えもしなかった“上玉”を起用できるチャンスに恵まれたますやみそ。しかしギャラは安くはないし、果たして企業イメージとしてどうなのか? 経営者は思わぬことで決断を迫られることになった。さぞや悩んだことだろう。

そして、衣笠さんの起用を決めた。

その反響は言うまでもない。かくいう僕も、あのコマーシャルによって「ますやみそ」を知ることになった。企業の認知度は飛躍的にアップしただろうし、売り上げだって伸びないはずがない。なんと言っても「カープの衣笠」だ。

きっと妬みもそねみもあったのだろう、経営者の耳には賛辞ばかりか、直接間接に批判や陰口が聞こえてきたという。

しかし、ますやみそは衣笠さんを起用しつづけた。そして、衣笠さんがチームどころか、プロ野球界の顔となっていくうちに、批判的な声は影を潜めていった。そして連続試合出場の日本記録、さらに世界記録を塗り替える頃には、文字通りに衣笠さんはますやみその“金看板”となっていた。

コツコツと試合に出つづけ、地道に積み上げていった衣笠さんの連続試合出場の記録。そのイメージは、いつかますやの味噌作りのイメージと重なっていった。それはまた、社員の意識高揚にもつながったことだろう。

「母さんの味、ますやみそ」

そのキャッチをお借りれば、“息子”の衣笠さんはとんでもない孝行息子になってくれたのだ。

ちなみに、衣笠さんが現役を引退して「カープの衣笠」ではなくなってからも、ますやみそは衣笠さんをずっとスポンサードしていたという。その関係は衣笠さんが亡くなるまでつづいた。

広告というドライでがさつな世界で、こんな麗しい関係を僕は他に知らない。両者はスポーサーと契約キャラクターの関係を超えて、文字通り家族も同然になっていたのだろう。

「草野球の日」宣言。

コーンプロジェクト /文工舎

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# by suitonrou3 | 2018-05-21 21:42 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

“鉄人”のもう一つの記録


衣笠祥雄氏追悼コラム㉗「“鉄人”のもう一つの記録」をnoteに書きました。
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# by suitonrou3 | 2018-05-20 16:59 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)

「ヒーローが並び立つとき」


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notoに衣笠祥雄氏追悼コラム「ヒーローが並び立つとき」を書きました。


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# by suitonrou3 | 2018-05-19 11:22 | 衣笠祥雄氏追悼コラム | Comments(0)