遅いアナウンスになってしまいました。
「球場巡礼 第1集」がkindleでご購読いただけるようになっております。
1996年の夏。青春18きっぷを使っての九州北端3球場を巡る遠征の記録です。
まだホークスの二軍がホームグラウンドにしていたころの雁の巣球場。そこから海路渡った福岡ドーム。
そして翌日、ようやく参拝できた聖地平和台球場…
鉄路のリズムとともに懐かしい〝野球の匂い〟が漂ってくるのではないでしょうか。
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くだんの広島市立中央図書館の移転問題に関する今朝の記事だ。
投稿者はフリーの宮崎園子記者。
記事を要約してみよう。
昨年3月、広島市議会は現在中央公園の敷地内にある同図書館を広島駅前のエールエールA館への移転を含めた予算を可決したが、そのさい「十分な議論が尽くされていない」として、「A館への移転、現在地建て替え、中央公園内移転建て替えの3案を比較検討できる資料を作成し、議会、利用者、有識者などに説明し理解を得たうえで移転先を決める」との付帯決議案を全会一致で可決した。
にも関わらず、広島市はその「約束」をすっぽかして昨年12月の市議会総務委員会で「再整備候補地はA館」との結論をすっとぼけて示した。(つまり「結論ありき」だよと、みずから表明したわけだ)
その過程で市は公園内建て替え案を一方的に除外し、他の2案に絞って検討したとしているのだが、その経過はヤブというか闇の中。コラムの筆者は比較検討業務を受託した調査会社の仕様書や市との協議記録の情報公開請求をしたもののほぼ不開示。一部開示されたものも〝広島市名物〟の「のり弁」つまりほぼ黒塗りの愛想のないものだった。しかも調査会社の報告書を市議に開示もせずに「A館移転」の結論を導いていたという。(市議会も舐められたものです。「安倍さんから」の付け届けをもらって以来、弱みにつけ込まれましたかね)
さらに広島市は「A館移転」の結論を表明してから審議会等の会合をセッティングしていたという厚顔ぶり。しかも、その会議録は市議や市民に公開すらされていないのだ。
また、姑息というかいつもの手口というか、補助金などで縛りがきく団体に「A館移転を求める要望書」を出させて移転案の補強にしてもいる。
こうして虚偽と隠蔽と捏造で既成事実をつぎつぎに積み上げて「結論ありき」の事業を進める。残念ながらそれが広島市の行政スタイルなのだ。
先日、所用の移動で広島市民球場跡地の前を通った折に見た景色が思い出される。またまた、なんのイベントをするのかグラウンドを掘り返し掘っ建て小屋を建てての工事中、いつまでも落ち着かないスペースのままでありつづけていた。
もはや何かの場所にするというプランすら失われ、訳のわからないことをやりつづけることが目的になってしまったかのようだ。そして繰り返される工事とイベントそれ自体が利権になってしまって、にっちもさっちも行かなくなってしまったかのような体たらくた。
こんなことをつづけてきて、「まちづくり」もへったくれもない。民意に耳を貸さずに強行する結論ありきのプラン。それはある意味「破壊」といえないこともないではないか。
そういえば、先ごろ発表された2022年の住民基本台帳人口移動報告によれば、東京への一極集中が進む一方で、広島は流失の部で2年連続して1位の栄誉を獲得したというではないか。
今回の図書館移転問題に限らず、市民球場問題もしかり。同じ手法で街をぶっ壊してきた数々の事例を思い返せば、民意に耳を貸そうとしない広島市の行政のあり方のツケがいま回ってきたのかもしれぬ、と思わざるをえない。
「試合前から決めていた」
カープ佐々岡監督がこのところよく口にするこのコメントを反芻してみて、ようやくモヤモヤしていた霧が晴れたというか、ザラついた不快感が解消されたような気がする。
といっても、清々しい気分になったわけではない。
ファンの感覚、あえていえば一般的な野球観と佐々岡監督が繰り出す采配とのズレ。それにずっと私も苛立ってきたのだが、そのシコリがとれただけのことなのだが…。
❋—❋—❋
昨日のカープ対ドラゴンズ戦。
3対3の同点で迎えた9回裏。カープは守護神の栗林投手を温存して菊池保投手をマウンドに送った。
その理由を問われて佐々岡監督は、つぎののようにコメントしたと中国新聞は報じている。
「セーブがつく状況以外では(栗林投手は)使わないことは、(中略)試合前から決めていた」
先週の対ヤクルト戦における鈴木選手の謎の交代の際にも、たしか同じようにコメントしていた。
「(鈴木が出塁したら代走を出すことは)試合前から決めていた」
その結果「つぎの回にチャンスでまわってくるかもしない」にもかかわらず、いい方を変えれば「一般的には、あのケースで4番を交代させることは疑問だった」にもかかわらず、試合前に決めていたという理由でベンチに引っ込めたと。
今回は、このふたつのケースの是非を蒸し返すのは控えたい。
それ以前に、試合前に選手の起用法や采配を決めて、それを粛々と実行することの意味を考えてみたい。
ファンの感覚からすればつぎはこうだろうと期待し予想する局面で、佐々岡監督は「試合前から決めていた」作戦や起用法を繰り出していた。それがためにファンの感覚(一般的な野球観)とはズレた状況が局面ごとに生起し、そのたびにファンは釈然としない思いをし、かつ怒りを覚えてきた、そういうことだったのだ。
「何のこっちゃ」である。
試合が始まる前から、すでにファンの感覚からすれば想定外のギクシャクは約束されていたというわけだ。
❋—❋—❋
以前から抱いていた、ひとつの疑問があった。
佐々岡監督は試合中に遠い目をして一点を呆然と見つめたまま、グラウンドで繰り広げられている攻防に無関心なように見える。それで果たしてゲームの展開に応じた指揮がとれるのか…、と。
その疑問も、これで氷解した。
たしかに〝佐々岡流監督術〟なら試合展開を注視する必要はない。その局面になったら(あるいはならなくても)試合前から決めていたことを粛々と実行する、それですんでしまうのだから。
野球というゲームは生き物だ。回を重ねるごとに刻々と変化し劇的に優劣が入れ変わる。その〝野球的な流れ〟にどう対処しピンチを回避するか、あるいはチャンスを拡大するか、その判断力と対応能力が指揮官に必要な最大にして最低限の資質というものだろう。
ピンチには様々なケースがあり、チャンスにも多様な状況がある。したがって、その局面局面で求められる選択肢は多種多様だ。
そんなピンチやチャンスの場面で、「試合前から決めていた」作戦や選手起用法を持ち出されたのでは、野球の流れに水を差してしまうことは明らかだ。野球の神様でもない限り、その対応を事前に決めておくことなどできるはずもない。
野球というゲームをゲームたらしめているのは、この「流れ」といっても過言ではない。その本質をわきまず「試合前から決めたこと」を杓子定規に行使しているのだとすれば、「監督不適格」をみずから公言しているも等しいのではないだろうか。
❋—❋—❋
カープがもし最下位になれば自動的に監督は辞任もしくは解任されて、新監督が誕生すると期待するファンも少なくないようだ。
通例であれぱ、ファンがどう思おうと知ったことかと、早々とオーナーの口から続投宣言が出ているはずで、それがないところをみると交代は視野に入っているとも考えられる。
だが、はたしてそんな流れになるだろうか…。
「試合前から決めていた」
佐々岡監督がこにきてもまだ、空気も読まないかのようにこんな強弁ができているところをみると、続投は内々に耳打ちされているようにも思うのだが…
❋冒頭の写真はイメージです。内容とはとくに関係はありません。
「もし衣笠祥雄がカープの監督だったら」(仮題)の表紙イラストのラフ、いい感じで上がってきたのでデザインしてみました。
まだプライベート用ですが、特別に「ちょっとだけよ」のご開帳。
なんか、いい感じですね。
書店の店頭のワゴンに山積みされているイメージが湧きました。(笑)
原稿を書いていて行き詰まったり、刊行への手応えがイマイチつかめなかったりすると(つまりいつもということ)、こんなふうにラフを作ってみるのです。
世間では「やりたいことリスト」をあげて、それを動機づけにするのはよくあることらしいが、それに近い感じですか。
ちなみに文庫版にして見本も作ってみました。
これを眺めながら、執筆の仕上げに入ることにしたしましょう。
では、また。
逝ってほしくなかったひとが、またひとり旅立ってしまいました。
元カープの外野手で、熱血プレイで草創期のカープファンを沸かせた平山智さんが亡くなられていたとか。享年91歳。
訃報にせっして涙するのは、ひさしぶりのことです。
何年前のことになるのかカープの初代エース長谷川良平さんが鬼籍に入られる前のことでしたから、2000年の前後だったはずです。元カープの剛腕投手・外木場義郎さんの偉業を顕彰するような会があって、ナマの平山智さんをはじめてお見かけしたのはその席でのことでした。
それが平山さんだとわかったのは、ひととおりのセレモニーがすんだ歓談中のこと。貴賓席にいた大御所・長谷川良平さんのところに安仁屋宗八さんが誰かを連れていかれるのをみんなが注視しはじめたからで、その様子からそれが平山さんだと直感したのです。
長谷川さんと平山さんとが長く仲たがいしているらしいことは、どこからともなく耳にしていました。
長谷川さんの現役時代の信念と、聞きおよんでいた平山さんの人間性とを思えば、そうなるのは必然だったはずで、ぼくの中でその反目は確たる事実として認識されていたのです。
そして、その平山さんを長谷川さんのところに案内しているのが安仁屋さんということで、これはもうピンときました。
「ああ、安仁屋さんがふたりを手打ちさせようとしているんだ」と。
安仁屋さんが尋常ならざる配慮のひとであることを知っているからこそ、そこにいた連中もそれを察してその経緯に注目していたのです。
長谷川さんはその頃すでに車椅子がないと移動もままならないからだになっていました。それでもなんとか身を起こして平山さんを迎えようとしているのが、遠い宴席からも見てとれました。
平山さんは平山さんで、何のわだかまりもなかったかのように素直に両手をさしだされていました。
おふたりの表情までは、はっきりと認めることはできませんでした。しかしまちがいなく、熱いものが溢れでていたことでしょう。
それはそれは、いい光景でした。
信念と人間性とをかけて衝突したまま、日本とアメリカという距離をおいてシコリを解くチャンスがなかったおふたりが、握手に握手を重ねて和解した瞬間…。
長谷川さんにとっては永遠の旅立ちの前に未練をひとつ解消できたことでしょうし、平山さんにとっては逝ってしまわれる前にわだかまりを解くことができたのです。
安仁屋さんのクリーンヒット。いや、完全試合でした。
外木場さんの偉業を称えるにやぶさかではありませんが、なぜあの日だったのか?
呼びかけ人が安仁屋さんでしたから、きっとこのセレモニーを仕込むために企画されたのでしょう。
この会がハネたあと、安仁屋さんの行きつけの焼き鳥屋さんで二次会がありました。ここでナマ平山さんと酒席をご一緒できるチャンスを得たのは忘れがたい思い出です。
前世の縁まで引っ張り出すつもりはありませんが、以前から識っていたような、そんな気がして遠慮なく戯れさせてもらいました。
〝ひとタラシ〟といえば失礼でしょうか、平山さんのにじみでる人間性、温かさに一発でファンになってしまいました。
お会いしたのは、この日の一度だけ。でもぼくにとっては、忘れ得ぬカープのレジェンドのひとりでした。
平山さん、あの日ぼくの肩に手をまわしたときのあなたの掌の暖かさ、いまでもはっきりと覚えています。
遠からず、あの掌で長谷川さんとあらためて握手されるのでしょう、「ぼくも、来たよ」と、アメリカ訛りの日本語で挨拶しながら。
涙しながらも、悲しくはないのはなぜなんでしょう。
喪失感もありません。
もしかしたら、あのときの掌の温かさの記憶が、まだはっきりと残っているからでしょうか。
でもご挨拶だけはしておきませんとね、礼儀ですから。
「黄泉の旅路、くれぐれもお気をつけて」
かつての韋駄天ぶりを発揮して、直行で天国までスタールしてしまわれんことを。